海猫亭日誌

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zoom RSS ふしぎな羅針盤 梨木 香歩

<<   作成日時 : 2011/09/04 19:12   >>

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エッセイ集のせいか、初出誌が「ミセス」という媒体のせいか、ある程度豊かな階層に属する人の意見だな(経済的豊かさに裏打ちされていなければ、この繊細さは守りきれないだろうな)という気はするけれど、それでもうやはり心地よいと感じてしまうのは、群れの生き物である私達が社会という全体の中で他者と共感を保ちつつ、個として生きるには、どう世界と折り合いをつけていけばよいか?という問いへの答えを繰り返し探し続ける姿勢のせいかもしれません。

“非常時の名のもとに一律に同じ価値観を要求され、その人がその人らしくあることが許されない社会”
というのは、確かに社会のあり方としては末期症状にある状態だと思うし、こういう状態が常態として求められるようであれば、その社会はいずれ崩壊するであろうな、と思うのだけれど、皆が同じような認識を持たなければ、この危機を乗り越えられないと非常事態に追い詰められ、危険に毛を逆立てた動物のように警戒体制に入っている群れの中で、その状態に違和感を感じる個体は群れを形成する生き物の一つとしてどういうあり方をとればいいのか?

この問いかけへの答えを出すことがとても難しいから、梨木さんも

「煮詰まった人間関係は当人がどんなに頑張っても容易なことでは動かない。よく自分が変われば他人も変わるというけれど、今の世の中ではそういう法則も働かないことがある。あまりにも複雑な要因が絡んでいるから」
 と、書いているのかもしれません。


「『西の魔女が死んだ』を執筆していた当時、『シロクマはハワイで生きる必要がない』という言葉を人間関係にがんじがらめになった子供達と分かち合いたかった」
という一文に(初出誌が「ミセス」なので)、ああ、ようやく大人がそのことを理解できる時代になったのか、と思いました。
30年以上前、三原順さんが「はみだしっこ」の中でサーニンに言わせた言葉を連想したので。

「ねえ、ジャック。南極では上手く生きられない人でもアフリカならやっていけるかもしれない。僕が言いたいのはそういう事なんだ」

何故、あの当時三原さんが熱狂的に少女達の支持を得たのか。少女マンガであったのに、少年達をもひきつけたのか。
今は大人になったかつての少女達、少年達が今でも時折読み返すのか。

児童文学ですらマンガに比べ、息苦しさを理解していると子供達に伝えることに30年以上遅れている。そういう社会に私達暮らしている。
そのことが答えの一つなのかな、と思ったりしました。

「逃げることが恥ではない。津波が襲ってくる時に全力を尽くして逃げたからといって、誰がそれを卑怯とののしるだろうか。逃げ足の速さは生きる力である。
津波の大きさを直感するのも、生きる本能の強さである。いつか自分の全力を出して立ち迎える津波の大きさが、正しくつかめる時が来るだろう。その時は逃げない」

大人が大人向けの雑誌にこういう文を書けるようになるまで30年。
長かったのかしら?短かったのかしら?

「明るさや音が強烈であるほど感覚が揺さぶられるわけではない。乱暴に言えばハリウッド映画のように刺激が大きければ大きいほど感覚自体は麻痺するし、入ってくる情報が少なければ少ないほど、僅かな差異を認識しようと感覚の間口は大きく開かれ、感度は高く研ぎ澄まされていく」

こう書いてある文もあるから短かったのかもしれません。

明るいこと、強いこと、誰からも好かれている筈であること、いつも倫理的に「正しい」判断であることを信じて疑わないこと。

「強くて、いつも『いいもの』の筈の『アメリカ』」を象徴として語られる自分の善を疑わないものの単純な頑迷さ。

「いいもの」「悪いもの」が簡単に自分の中で線引き出き、自分はいつでも「いいもの」の筈。だから神は絶対に自分の側についておられる筈。

国でなくて、個人でもこういう人とつきあうのは疲れるでしょうね。

いつも自分が正しいと信じて正義を振りかざす人と付き合うと疲れるんですよ。
自分に体力と気力があって余裕を持って接することが出来る時じゃないと単に反論するだけで喧嘩になりそうで。

イギリス人が、“正しい”アメリカ人を皮肉を持って眺めている気分がよく解かる。

常に「正しい」人間よりも、自分は「悪いもの」にもなりうるのだ、と自覚している人間の方が魅力的ですね。

「倫理的でありたい」と願う気持ちと「自分は倫理的である」と自負する気持ちは別。
倫理的でありたい、と願いつつ、それが出来ないことを自覚する弱さに人間らしさを感じるのかもしれません。

強いこと、正しいこと、論理的、合理的に説明出来ることばかりだと息が詰まってしまうんですよ。
強いの代名詞の鉄鋼だって、強さに晒され続けると金属疲労で折れてしまうのですから。

ただ在ること。「場」を生ききっていること。

なんがら分からないけど、心にずしんと響くことがあること。

そのことを何故かと分析したりせず、ただその実感を抱きしめること。

そういうものがどれだけ生きることを楽にしてくれることか。

弱いというのは悪いことでしょうか。
でも弱さがあるから人は他者との共感を求めるし、自分にない誰かの美点を心地よいものと意識して、積極的に「お手本」とする。

生涯現役であり続けるのは素晴らしいことだけど、寝たきりにならない限り「ご隠居さん」にはなれない。
なんとなくふらりと歩いたら知人と会って、じゃあ、お茶でも、といつでもお茶の相手が出来るゆとりのある存在がいない世の中もそれはそれで寂しい。

植物はこれまでの在り方ではもう立ちゆかないとなったら生きる為に自分の体の仕組みさえ変える。
日光の東照宮は完璧にならないよう、わざと一箇所弱い部分、完璧でない部分を作ってある。

生物は、我が身んび降りかかった危機的な状況をどうにも避けられないものとしながら、同時に「チャンス」のようにも捉えて、もっと創造的に、内省的に自らを変えていく。

生物の持つ可能性としても弱さ。生物として身の丈にあった時間。

赤ちゃんの目の動きや、その変化に自分の気持ちを同調させ「この世に生れたての頃の気分」を味わうこと。

個人的に何となく好きな場所を持っていること。

そういう場所で、そういうことで心身のダメージを癒し、世界と折り合いをつけるエネルギーを蓄え、消耗せずに生きていくことが出来るのかな、となんとなく思いました。


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