海猫亭日誌

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zoom RSS アフガニスタン母子診療所   梶原 容子

<<   作成日時 : 2010/03/13 01:30   >>

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トンデモ話として自然分娩に固執するあまり結果として子どもを亡くしてしまった夫婦の話をネットで読みましたが、ちょうどその頃この本をもう一度読み返していたので初読の時には浮かばなかった疑問が浮かびました。

出産について、アフガニスタンの軍閥の司令官やタリバンの指揮官よりも日本の自然分娩に固執する人達の方が非科学的で狂信的なのは何故だろう?

アフガニスタンは、ほぼ自然分娩で出産が行われる国です。(というか帝王切開を出来る技術を持った医師の数が少ない)

新聞報道では中央政府が力を持っているように思えますが、実質は日本の戦国時代のような状態にある国。中央政府の政府の影響よりも地域地域の有力者の力の方が強い国。

そういう国で日本人医師が技術支援を行う為には、まず地域の有力者にご挨拶に伺わなくてはなりません。

おそるおそる赴任先の病院のある地域を支配している軍閥の司令官に会いに行った著者は武装した強面の司令官にこう言われます。

「アフガニスタンの女性達の為にありがとう。自分に出来ることがあったら何でも言ってくれ」

けっして自然分娩以外のお産はイスラムの教えに反する、なんて言わないのですね。現地人のスタッフは言います。タリバン統治下にある時も急なお産で急いでいると言ったら女性の外出を咎められたことはない。

帝王切開というものに対して、自然分娩に固執する日本人と受けられる人が多くなることを喜ぶアフガニスタン人。

この認識の違いはどこからくるのだろうと思いましたが、たぶんアフガニスタンの司令官達はお産というのはどれほど危険であるのか実態をしっているのじゃないかしら?

アフガニスタンは、お産の時に母子ともに命を落とす確率が世界でも高い国の一つ(確か日本とは30%近く死亡率が違っていたんじゃないかな)

もちろんお産というのは病気ではないので、たいていのお産は病院に行かなくても助産師さんたちの手助けで充分足りるんだけど、そうでないというお産も当然発生するわけですよね。(文盲の助産師さん達の為に妊婦がどういう状態になったら医師の支援が必要となるのかを寸劇で説明するくだりは笑いました)

そういう時に医師の支援を受けられるか受けられないかということは大きな違いがあるんだな、としみじみ思いました。

初めての帝王切開が成功するようにとスタッフ全員がお祈りをしてから行った手術は成功。

「これで、この病院でも帝王切開が出来るようになる。お産で命を落とす母子を減らすことが出来る」

と喜ぶスタッフと妻子が退院する時に文字が書けない為、人に頼んで書いてもらった手紙で医師への感謝を伝える夫。

「妻が病院に運ばれる時、私は二人の命は諦めていた。妻と初めての息子の命を救ってくれてありがとう」

お医者さんていい商売だな、としみじみ思いました。(もっともアフガニスタンでは患者の命を救えなかった医師が、患者の家族に殺されることもあるそうなのでハイリスクハイリターンの職業というやつかもしれませんが)

ネットで、産科医へのインタビューを集めた本の中から自然分娩に固執する人にとってはカリスマ的な魅力を持つ医師の言葉を抜粋したものを読んだことがあります。

「私は本当の真実である自然を信じています。したがって、私はお産を科学でやっているのではなく、宗教でやっています。赤ん坊にせよ母親にせよ、自然に従って死んだら、それは当然死ぬべきものが死ぬということです。」

「お産には科学技術はいっさい、いりません。昔だったら淘汰されていた異常を生かすことは、自然法則に反します。」

これお産で命を落とす人が少なくなった日本でだから言える言葉だよな、と思いました。手を尽くしても救えなかった経験を多く持つアフガニスタンの医師達なら逆に言えないのじゃないかしら。

ペシャワール会の中村先生の著者の中で凄く印象に残っている言葉があって

「アフガニスタンでは日本ほど医療が発達していない。だから簡単に人が死ぬ。生き残る力を持った個体だけが生き残る。
発達した医療はかつてなら死を迎えていた人間を生きながらえさせるようになった。死ぬはずだった人間が死なない。個人としてはそれは喜ばしいことだ。
だが人類という種にとってはどうだろう?かつてなら淘汰されていた弱い個体が生きのびることは人類という種の力を弱めることにならないだろうか?」

昔読んだ本だからうろ覚えだけど、確かこんな言葉だったと思います。あ、確かにこれはパラドックスだ、と思いました。

弱い個体が淘汰され、環境に適応できる強い個体だけが生き残ることで種としての繁栄を目指すというのは自然の法則なのかもしれません。でも人はその法則には耐えられない。

なんとかして、それに抗おうと戦ってきた歴史が医療の歴史なら、個人にとっての幸福と人類という種にとっての幸せが相反するものであろうとも個人の幸せを選んでしまうのが人間の業なのかな、と思うのですが、自然なお産に固執する人達にとってはそうではないのですね。

えらいなあ、私なら言えないわ「死んだら死んだで仕方がないと思うのが、生きてあるもののお産の原理です」なんて。私なら

「自然なお産であろうがなかろうがそんなのどちらでもいいんです。無事お産が終わって母子ともに元気な状態を迎えられるようにしてください」

と、願うと思いますが(たぶんアフガニスタンの人達もそう思うと思いますが)アフガニスタンより医療システムに恵まれた日本で

「赤ん坊にせよ母親にせよ、自然に従って死んだら、それは当然死ぬべきものが死ぬということです。」

と、言い切れるなんて、なんて腹が据わっているのでしょう。その結果母子ともに亡くなることがあっても後悔しないという覚悟があるということですものね。

医療に頼りすぎるのも良くないことだと思いますが、生物としての力は日本人よりもアフガニスタンの妊婦の方が強いと思うのですよね。

戦争のせいで生活のインフラが破壊されたり整備されなかったりで、井戸汲みをはじめ家事労働は肉体労働でしょうし、アフガニスタン人は結婚年齢が早いから十代の妊婦が多いでしょうし。

でも出産における妊婦の死亡率は日本の方が低い。

それとも自分だけは大丈夫だという自信でもあるのかな?アフガニスタンでも富裕層が万全の医療ソースに恵まれているみたいだし。

アフガニスタンの人達にとって出産は自然の営みだけど、自然出産に固執する人達にとっては出産は思想なのかもしれませんね。それとも自己表現の一種なのかな?

自分の思想や表現の手段として出産を使う、と考えるなら自然出産にこだわる訳がわかりますね。

自然の営みなら、お産の目的は「母子ともに無事であること」になるけど、思想の表現なら「自分の思想・信条にそった形のお産であること」になりますものね。

自分の思想を貫く為に命をかける、というのはよくある話ですが、かけるならかけたい人だけがかける方がいいと思うけどなあ。親がどんなお産を選ぶかは子どもには選べませんものね。かけたくなくても命をかけることになるわけか。


アフガニスタンで著者が勤めた病院では5歳以下の子どもは医療費が無料なのですが、10歳くらいの子どもが破傷風で運び込まれるというエピソードがあって、医療費を払えない親の為に現地人スタッフと著者が

「子どもの年は?」
「5歳!」
「…うん、5歳だと思う」
「…わかった。5歳ね、5歳なんだからちゃんと書類に書いておいてね」

 と、あうんの呼吸で交わした会話に大笑いしたのですが昨今の不景気といっぱいいっぱいの医療システムの状態を考えるとあまり笑えないかも、と思ったりもしますね。

今度読み返す時には、どんな感想を持つのかなあ。






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